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東京高等裁判所 平成3年(行ケ)199号 判決

大阪市北区堂島浜1丁目2番6号

原告

旭化成工業株式会社

同代表者代表取締役

弓倉礼一

同訴訟代理人弁護士

宇井正一

同弁理士

石田敬

藤井幸喜

東京都千代田区霞が関3丁目4番3号

被告

特許庁長官 麻生渡

同指定代理人

産形和央

長澤正夫

田中靖紘

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第1  当事者双方の求めた裁判

1  原告

(1)特許庁が平成1年審判第85号事件について平成3年5月30日にした審決を取り消す。

(2)  訴訟費用は被告の負担とする。

2  被告

主文同旨

第2  請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和56年9月19日、名称を「着色方法」とする発明(以下「本願発明」という。)について、特許出願(昭和56年特許願第146999号)したところ、昭和63年11月7日拒絶査定を受けたので、昭和64年1月5日査定不服の審判を請求し、平成1年審判第85号事件として審理された結果、平成3年5月30日「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は同年7月24日原告に送達された。

2  本願発明の要旨

別紙第一の一般式(Ⅰ)で表される、少なくとも1個の>C=NH基を有する化合物(別紙第一の一般式(Ⅰ)の式中、AはO、NH又は(OR1)2を表し、R1はC1~C4までの低級アルキル基、Zはベンゼン環、ナフタレン環、ビフェニル環、アントラセン環、インデン環、フルオレン環、フェナントレン環若しくはアセナフテン環又はその誘導体の芳香族環の基又はインドール環、インダゾール環、クマロン環、ベンズイミダゾロン環、ベンゾチオフェン環、ベンゾオキサゾール環、ベンゾチアゾール環、ベンゾイミダゾール環、ピリジン環、キノリン環、イソキノリン環、キナゾリン環、アクリジン環、フェナジン環、ピラジン環、オキサジン環、キサンテン環、プリン環、ジベンゾフラン環、ジベンゾピール環、アントラキノン環若しくはその誘導体の複素環の基を表し、これらの炭素原子が結合に関与している基を示す)又は別紙第一の一般式(Ⅱ)で表されるイソシアナート化合物(別紙第一の一般式(Ⅱ)の式中、R2は置換基を有する、又は置換基を有しない、芳香族化合物残基、mは1~4の整数を表す)のいずれか一方の化合物をビヒクル中に包含させ、この化合物と残りの他方の化合物(Ⅱ)又は(Ⅰ)とを接触反応せしめて有色化合物をビヒクル相中に生成せしめることを特徴とする着色方法

3  審決の理由の要点

(1)  本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。

(2)  これに対し、昭和55年特許出願公開第152749号公報(以下「引用例1」という。)には、少なくとも1個の>C=NH基を有する別紙第二記載の化合物(別紙第二の一般式中、Xはハロゲン原子、nは0~4の整数を表す。)で示される3-イミノーイソインドリン-1-オン化合物に対し、0=C=N-R-N=C=0(式中、Rは置換基を有することのある芳香族化合物残基を表す。)で示されるジイソシアナート化合物を反応させて、有色化合物を生成せしめる方法が、また同じく、昭和54年特許出願公開第83026号公報(以下「引用例2」という。)には、別紙第三の一般式(Ⅰ)(別紙第三の一般式中、R1、R2は、水素原子、メチル基、フリール基、フェニル基、又は置換フェニル基を表す。)で示される7-アミノ-2、3ジ置換-5-オキソピロロ〔3、4b〕ピラジンと、引用例2記載の一般式(Ⅱ)OCN-X-NCO(式中、Xは炭素環式芳香族残基を表す。)で示されるジイソシアネートとを反応させて、有色化合物を生成せしめる方法が記載されている。

(3)  本願発明と引用例1又は引用例2に記載された方法とを対比すると、引用例1又は引用例2記載の発明における3-イミノーイソインドリン-1-オン化合物又は7-アミノ-2、3ジ置換-5-オキソピロロ〔3、4b〕ピラジン、並びに各々のジイソシアネートは、いずれも本願発明における一般式(Ⅰ)及び一般式(Ⅱ)(以下特に限定することなく「一般式(Ⅰ)」、「一般式(Ⅱ)」というときは、別紙第一に記載された本願発明におけるものを指す。)の各化合物に包含されるものであるから、本願発明と各引用例とは、一般式(Ⅰ)の化合物と一般式(Ⅱ)の化合物とを反応せしめて有色化合物を生成する点で軌を一にしているが、本願発明では、一般式(Ⅰ)、(Ⅱ)のいずれか一方の化合物をビヒクル中に包含させ、この化合物と残りの他方の一般式(Ⅱ)又は(Ⅰ)の化合物とを接触反応せしめて、有色化合物をビヒクル中に生成せしめるのに対し、引用例1又は引用例2には、有色化合物は溶媒中で生成されることは記載されているが、上記の点については明記されていない点で相違している。

(4)  そこで上記相違点につき検討するに、二種の化合物を反応させて被処理物を着色するに際し、一方の化合物を被処理物に包含させ、他方と反応させることは、繊維などの着色において周知の手段であるから、かかる手段を引用例1又は引用例2に記載の方法において適用する程度のことは当業者が容易に想到し得ることであり、かつ本願発明が上記の手段を採ったことにより、格別すぐれた効果を奏するものとも認められない。

(5)  なお、原告は、溶媒中で反応させることに比べ、ビヒクルに包含させた化合物に他方の化合物を接触反応させると、極めて短い接触時間で発色されるという顕著な効果を奏する旨主張するが、本願明細書の記載によれば、一方の化合物が包含されるビヒクルとは、該化合物を分散、保持し、また発色処理後は有色物質を分散保持することにより、それ自身が着色されるもののことを言い、着色後はフィルム、シート、フォーム、パイプ等のプラスチック成形品や合成繊維、合成皮革などの成形品、チップ、ペレット等の成形原料、塗料、捺染色糊等の製膜材料の如く液状、粉末状のものなど広汎なものを意味しているところ、かかるビヒクルの種類及び該ビヒクルへの一方の化合物の包含の仕方によって発色までの時間は大きく異なるものと認められるので、一義的に顕著な効果を奏するとはいえず、上記原告の主張を採用することはできない。

(6)  以上のとおりであるから、本願発明は、引用例1又は引用例2に記載された方法に基づき、当業者が容易に発明をすることができたものと認められ、特許法29条2項の規定により特許を受けることができない。

4  審決を取り消すべき事由

引用例1及び引用例2に審決認定の技術内容が記載されていること、本願発明と各引用例記載の発明との一致点及び相違点が審決認定のとおりであることは、認めるが、審決は、違法な審判手続に基づきなされたものであって、その違法は審決の結果に影響を及ぼすものであり、また、審決は、相違点を看過しており、更に、本願発明の技術的意義を誤認し本願発明の顕著な作用効果を看過して相違点の判断を誤り、その結果容易推考性の判断を誤った違法があり、取り消されるべきである。

(1)  審判手続の違法性(取消事由(1))

原告が審判請求に際して特許請求の範囲を補正したのに、審判手続において拒絶理由通知の手続が踏まれないまま、拒絶査定における拒絶理由と異なる理由で審決が下されているから、審決は、違法な審判手続に基づくものであり、この違法は審決の結果に影響を及ぼす。

すなわち、拒絶査定に先立ってされた拒絶理由通知書の2には、本願発明は、引用例1及び引用例2記載の発明に基づいて容易に発明をすることができたとの記載があり、同3には、本願発明に係る出願は、実施例の記載が不十分で、明細書の記載が不備であるから特許法36条3項、4項(平成2年法律第30号による改正前、以下同じ。)に規定する要件を締たしていないとの記載があったが、拒絶査定は、この3の理由により拒絶すべきものと認めるとした。そこで、原告は、審判請求をするとともに、手続補正書(甲第4号証)を提出して補正をした。これに対し、審決は、特許法36条3項、4項について何ら判断を示さないまま、前記2の理由に記載された引用例1及び引用例2記載の発明により特許法29条2項に規定された進歩性の要件を充足しないことを理由に、原告の審判請求は成り立たないとの結論を下した。このような審決をするには、特許法159条2項により準用される同法50条の規定により、原告に拒絶理由を通知すべきであった。ましてや、本件では、審判請求の際に手続補正書を提出して特許請求の範囲を補正したことにより拒絶査定で審査の対象となった発明と相違したものになったという特段の事情があったのに、審決は、この法定の手続を欠いてなされたものであるから、違法である。

この点について、被告は、審査官が通知した拒絶理由の中に審決の理由が含まれていたから、審判手続に違法の点はないと主張するが、以下のとおり根拠がない。

〈1〉 拒絶査定不服の審判において査定と異なる理由によって拒絶をしようとするのであれば、それは査定理由と異なる拒絶理由を新たに発見したことになるから特許法159条2項の規定が適用されることになるところ、同項には、但書、例外規定が設けられていない。

〈2〉 本件では、拒絶査定に対して手続補正をしており、特許請求の範囲が変わって来ているのであるから、特許法29条2項の進歩性の判断内容も変わって来るため、この補正された出願について審理されるのは審判が最初であり、審査官による拒絶理由通知時と相違する対象を審判するのであるから、たとえ拒絶査定前に審査官が拒絶理由として通知した同一事由であっても、査定と異なる事由を拒絶理由とする以上、新たに拒絶理由を通知すべきである。

〈3〉 本件では、審査官が拒絶理由通知書に記載した理由のうち特許法29条2項に基づく理由は撤回されており、拒絶理由を通知する必要がないとすることができない。

(2)  本願発明の進歩性に関する認定、判断の誤り(取消事由(2))

審決は、次のとおり、相違点を看過しており、また、本願発明の技術的意義を誤認し、本願発明の顕著な効果を看過した結果、相違点の判断を誤り、これらの誤りに基づき本願発明の進歩性の判断を誤ったから、取消を免れない。

〈1〉 審決は、本願発明と引用例との相違点を看過した。

すなわち、本願発明において、ビヒクルは、一般式(Ⅰ)の化合物又は一般式(Ⅱ)の化合物のいずれか一方を分散させたうえ保持し、次いで他方の発色剤との接触反応によって生成した有色物質をも同様に分散保持することによって着色される。言い換えれば、ビヒクル中に包含させたいずれか一方の無色の発色剤を、他方の無色の発色剤と接触反応させて有色化合物をビヒクル相中に生成させており、有色化合物はビヒクル相という特異な場で生成する。その結果、後記〈3〉において詳述するように顕著な作用効果を奏する。

これに対し、従来染料では既に発色しており、引用例1及び引用例2記載の発明も、その例外でなく、両反応化合物は溶媒に溶かされて、その溶液中で反応させて有色化合物を生成させており、ビヒクル中に分散保持させることも、ビヒクル相中で有色化合物を生成することもない。

審決は、上記の相違点を看過している。

〈2〉 審決は、「二種の化合物を反応させて被処理物を着色するに際し、一方の化合物を被処理物に包含させ、他方と反応させることは、繊維などの着色において周知の手段であるから、かかる手段を引用例1又は引用例2に記載の方法において適用する程度のことは当業者が容易に想到し得ることであり」と判断している。

「二種の化合物を反応させて被処理物を着色するに際し、一方の化合物を被処理物に包含させ、他方と反応させること」が、繊維などの着色において周知の手段であることは認める(以下、この方法を特に「周知手段」という。)。

しかしながら、本願発明は、前記のとおり、ビヒクル中に包含させたいずれか一方の無色の発色剤を、他方の無色の発色剤と接触反応させて有色化合物をビヒクル相中に生成させるものである。

これに対し、従来の染色用の染料では、既に発色しており(ナフトール染料による染色でも、使用するカップリング成分やジアゾ成分は、水等の溶媒に溶解し、水溶液状態で繊維に吸い込まれて被染色物に染み込んだこれらの成分が溶液中で反応して不溶の化合物が生成するものであって、繊維を構成する高分子化合物の相中に取り込まれることはなく、ビヒクル相中に生成するのではない。)、引用例1及び引用例2記載の方法もその例外でなく、両反応化合物は溶媒に溶かされており、その溶液中で反応させて有色化合物を生成させており、ビヒクル中に分散保持させることも、ビヒクル相中で有色化合物を生成することもなく、引用例1及び引用例2記載の発明は本願発明とは技術的思想を異にする。

また、周知手段は、いずれか一方の発色剤をビヒクル中に分散保持させたり、他方の発色剤と反応させて有色化合物をビヒクル相中に生成したりするものではない。そして、また引用例1及び引用例2の方法は周知の着色手段で使用される染料とは全く別種の顔料を使い、それとは技術的思想が異なるので、周知手段と引用例1又は引用例2記載の方法とを組み合わせることは考えられないというべきであり、審決の判断は誤っている。

なお、被告は、ナフトール染料による染色は、有色化合物をビヒクル相中に生成することそのものであると主張する。しかし、ナフトール染色過程では、ほとんど無色のナフトール類が水溶液状態で繊維に吸い込まれ(繊維の網状構造中に取り込まれるのであり、繊維を構成する高分子化合物の相中に取り込まれるのでない。)、次いでこの繊維が乾燥された後、ジアゾ化合物に浸漬され、その溶液中のジアゾ化合物がナフトール類と反応し、繊維の網状構造内でカップリング反応が起こって、不溶性のアゾ染料を生成するのであり、染料(有色化合物)の生成反応は溶液中で生じ、生成した不溶性化合物が繊維の網状構造内に固定され繊維が染色されるのであるから、被告の主張は失当である。

また、被告は、本願発明を塗料に適用する場合について溶剤とビヒクルとは実質的に区別できないし、一方の化合物を先に溶媒に溶かし、その後に他の化合物を反応させることは普通に行われるとも主張するが、その主張も理由がない。本願発明におけるビヒクルには液状物は含まれないし、本願発明は、所望の部分、所望の量を所望の色に着色せしめるための新しい発色方法であることに注視すべきである。

〈3〉 審決は、本願発明におけるビヒクルについて、「着色後はフィルム、シート、フォーム、パイプ等のプラスチック成形品や合成繊維、合成皮革などの成形品、チップ、ペレット等の成形原料、塗料、捺染色糊等の製膜材料の如く液状、粉末状のものなど広汎なものを意味している」と述べ、着色後の種々の製品ないしは材料自体もビヒクルそのものであるかのように認定したうえ、本願発明が一義的に顕著な効果を奏するとはいえないと判断している。

しかし、この前段の認定は誤りである。すなわち、本願発明でいうビヒクルとは、漠然とした広範なものではなく、明確に特定されており、一方の化合物それ自身が着色されるもののみであり、着色後の種々の製品ないしは材料は、着色後にとりうる形態を例示したものにすぎず、着色されたビヒクルを含む製品等の例にすぎない。このことは、本願明細書の文脈上明らかであるが、また、明細書において列挙する具体例、各実施例の記載からも明らかであり、本願発明の着色方法で使用されるビヒクルが形態として液状をとりうることを示す記載はないことからも明白である。

そして、本願発明には顕著な作用効果があるのに、審決は、それらの作用効果を看過しており、後段の判断は誤っている。

すなわち、従来技御では、ビヒクルを極めて短時間に着色することはできず、着色部分をビヒクルの特定部分に限定して確実に着色することは全く不可能であり、着色の堅牢度も本願発明に比較してはるかに劣り、着色処理後有色の廃棄物、廃液が排出するのを避けることができなかった。これに対し、本願発明では、主な作用効果として、以下のようなものがある。〈1〉実施例1等の実施例のように着色が短時間で行われる。すなわち、両発色剤の接触から中間体に相当するものを含む有色化合物の生成又はビヒクルの着色まで、極めて短時間で進行する。明細書の実施例の短いものでは、僅か5秒である。〈2〉部分着色が容易に可能である。すなわち、本願発明では、両発色剤が接触した部分のみが反応を起こしてビヒクルを着色するから、ビヒクルの任意の特定部分のみを着色するには、その部分のみで両発色剤を接触させればよい。〈3〉着色が堅牢である。すなわち、本願発明では、被着色物であるビヒクル中に埋め込まれた発色剤から有色化合物を生成し、生成した有色化合物をビヒクル中に強固に固着しているから、着色されたものは、物理的なストレス(応力)に対して抵抗力が非常に大きいばかりでなく、耐候性、耐薬品性も優れている。〈4〉有色廃棄物を外部に排出しない。すなわち、本願発明では、生成した有色化合物はビヒクル中に強固に保持され、ビヒクル外に漏出することがなく、ビヒクル着色後に廃棄物として外部に排出されることがないので、環境保全、公害防止の点からも好ましい。

第3  請求の原因の認否及び被告の主張

1  請求の原因1ないし3の事実は、認める。

2  請求の原因4の審決の取消事由は、いずれも争う。審決の手続、認定、判断は正当であり、審決に原告主張の違法はない。

(1)  取消事由(1)について

特許法158条の規定によれば、審査においてした手続は、拒絶査定不服の審判においても効力を有するとされているところ、原審で、審査官は、本願について昭和63年6月17日付拒絶理由通知書により拒絶の理由を通知したが、その二つの拒絶理由のうち一方では、本願発明が引用例1及び引用例2に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものとされている。したがって、審査において特許法50条の規定により拒絶理由通知がされているものを重ねてしなければならない理由はなく、審判手続に違法の点はない。

原告は、〈1〉査定時と異なる理由により拒絶するには、新たな理由通知を要する、〈2〉本件では手続補正により特許請求の範囲が異なって来ている、〈3〉本件では審査官が拒絶理由書に記載した事由のうち特許法29条2項に基づく事由は撤回されている、と主張する。

しかしながら、〈1〉上記のとおり審判手続は審査手続の続審であり、本件では審査手続において二つの拒絶理由が通知されて、意見陳述の機会が与えられており、〈2〉また、本件での補正は本願発明で使用される染料の一部が削除されただけであって、補正後の発明に審査段階で通知された拒絶理由の対象とならなかったものは含まれておらず、〈3〉審査官が拒絶理由として示したもののうちの一つを拒絶査定の理由としてあげた場合に残りの拒絶理由を撤回したこととなるとかその効力が消滅することを定めた規定はないのであるから、原告の主張はいずれも理由がない。

(2)  取消事由(2)について

(〈1〉の主張について)

審決は、本願発明ではビヒクル中に包含させたいずれか一方の無色の発色剤を、他方の無色の発色剤と接触反応させて有色化合物をビヒクル相中に生成させる点が引用例1及び引用例2記載の発明と相違するととしてこの点を相違点として認定しており、相違点の看過はなく、原告の主張は失当である。

(〈2〉の主張について)

溶剤はビヒクルを構成する成分又はビヒクルの一種であって、両者は実質的に区別できないものであり、本願発明でいうビヒクルの一種又はビヒクルを構成する部分である溶媒中で有色化合物を生成させるに際し、一方の化合物を添加して反応させることは周知手段からも容易に想起されることであり、引用例1又は引用例2記載の方法に周知手段を適用して本願発明に至ることは、当業者が容易になしえたものといわざるをえない。

原告は、ナフトール染料による染色においては、被染色物に染み込んだ成分が溶液中で反応して不溶の化合物が生成し、ビヒクル相中に生成するのではないと主張するが、ナフトール染料による繊維の染色は、繊維に染み込んだ一方の成分を他方の成分と繊維中で反応させて繊維を染色させるものであるから、これはまさにビヒクル中に包含させた一方の無色の発色剤を他方の無色の発色剤と接触反応させて有色化合物をビヒクル相中に生成することそのものである。本願発明を塗料に適用する場合は、溶剤等の顔料以外の液状成分の系中に一般式(Ⅰ)又は一般式(Ⅱ)の化合物を溶かし、次に一般式(Ⅱ)(又は一般式(Ⅰ))の化合物を溶かして均一に交ざり合わせると同時に反応させ、最終的に着色された塗料とする。この場合の溶剤は、ビヒクルを構成する部分又はビヒクルの一種で、両者は実質的に区別できず、溶剤は本願発明にいうビヒクルと一致し、原告の主張は失当である。

なお、原告は、本願発明におけるビヒクルには液状物は含まれないし、本願発明は、所望の部分、所望の量を所望の色に着色せしめるための新しい発色方法であることに注視すべきである、と主張するが、本願明細書における本願発明のビヒクルの定義には液状のものを排除する記載はなく、かえって、本願明細書にはビヒクルに粉末状のものとともに液状のものが包含されることが明記されており(本願明細書2頁左下欄13行ないし末行)、本願発明の特許請求の範囲の記載をも総合すると、この原告の主張も失当というほかはない。

(〈3〉の主張について)

原告は、まず、本願発明にいわゆるビヒクルとは、審決認定のような広範なものではなく、もっと特定されている、と主張するが、本願の明細書(2頁左下欄13行~末行)には、ビヒクルの形態が審決認定のとおり明確に示されており、原告の主張は、明細書の記載に基づかないものである。

また、原告は、本願発明により、〈1〉着色が短時間で行われ、〈2〉部分着色が容易であり、〈3〉着色が堅牢であり、〈4〉有色廃棄物を外部に排出しない、というような顕著な作用効果が得られる、と主張する。

しかしながら、〈1〉の点は、本願明細書に記載されておらず、〈2〉ないし〈4〉の点は、本願発明におけるビヒクルが溶媒等の液状物である場合に奏する作用効果とはいえず、また、一方の化合物溶液を繊維等の被染色物に含浸させその後他方の化合物を反応させて被染色物を染色する方法を適用した場合に当業者ならば当然予測できる程度のことであり、原告の主張は理由がない。

第4  証拠関係

本件記録中の証拠目録の記載を引用する(後記理由中において引用する書証は、いずれも成立に争いがない)。

理由

1  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、同2(本願発明の要旨)及び同3(審決の理由の要点)の各事実は、当事者間に争いがない。

2  甲第2ないし第4号証によれば、本願明細書には、本願発明の技術的課題(目的)、構成及び作用効果について、次のとおり記載されていることが認められる。

(1)  本願発明は、新しい発色方法に係り、更に詳しくは一般式(Ⅰ)で表される、少なくとも一個の>C=NH基を有する染色剤Aと一般式(Ⅱ)で表されるイソシアナート化合物のいずれか一方をビヒクル中に分散、混在させておき、これを残りの他方の化合物と直接又は溶媒中若しくは固体媒体を通じて、要すれば加温下で、接触反応させ、有色化合物をビヒクル相中及び表面に生成させることによるビヒクルの新しい着色方法に関する(本願公報1頁右下欄化学式(Ⅲ)下4行ないし2頁左上欄化学式(Ⅲ)下4行、5頁右下欄6行ないし11行、昭和63年9月16日付手続補正書2頁6行ないし3頁7行)。

一般にプラスチック成形品、フィルム、シート、ゴム(合成ゴムを含む。)、皮革(人口皮革、合成皮革、塩ビレザー等も含む。)、インキ、ペンキ、合成繊維等の着色には、あらかじめ発色している顔料又は染料を所望の色になるよう調合したものを被着色物中に混和したり、あるいは被着色物上に塗布あるいは染着させたりする方法などがとられているが、これらの方法は、部品各に色調を変える必要がある場合、少量多品種生産の場合、色々な色調模様をつける場合などには好ましい方法とはいえない。本願発明の方法は、これらの方法とは全然発想を異にし、あらかじめ無色の発色剤A又はイソシアナート化合物のいずれか一方を被着色物に混合、分散せしめておき、次いでこれをもう一方のイソシアナート化合物(発色剤Bと呼ぶ。)又は発色剤Aと接触させることにより、所望の部分、所望の量を所望の色に着色せしめることができる新しい発色方法を提供すること(本願公報2頁左上欄化学式(Ⅲ)下5行ないし右上欄17行)を技術的課題(目的)とするものである。

(2)  本願発明は、前記技術的課題を解決するために本願発明の要旨記載の構成(平成1年2月3日付手続補正書4枚目2行ないし5枚目14行)を採用した。

(3)本願発明の方法は、次のような作用効果を奏する。

すなわち、本願発明の方法により、種々の高分子成形品に関して、その製造工程の最終段階で発色処理を行うことができ、市場ニーズに合った着色品を効率よく生産できるばかりでなく、発色は全て被着色物中に混在している発色剤A(あるいは発色剤B)と接触反応して初めて有色となる。しかもここで形成された有色物は被着色物中にうめ込まれている発色剤と化学結合により結合した新しい化合物であり、これも又被着色物中に強固に固着されている。したがってこの着色物は物理的、機械的なストレスに対して耐性が非常に大きい。また発色箇所は被着色物中又は被着色物表面であり、処理媒体中では発色しない。このことは発色工程での有色の廃棄物、廃液等が排出されないことを意味し、操業上、公害防止対策上非常に有利な点となる(本願公報2頁右上欄18行ないし左下欄12行)。

3  引用例1及び引用例2に審決認定の技術内容が記載されていること、本願発明と各引用例記載の発明との一致点及び相違点が審決認定のとおりであることは、当事者間に争いがない。

4  取消事由(1)について

(1)  原告は、原告が審判請求に際して特許請求の範囲を補正したのに、審決は、拒絶理由通知の手続を踏まないまま、その原審である拒絶査定における拒絶理由と異なる理由で審決を下しており、違法であり、この違法は審決の結果に影響を及ぼす、と主張するので、この点について検討する。

(2)  甲第3ないし第8号証に前記1の当事者間に争いがない事実と弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認めることができる。

〈1〉  特許庁審査官は、昭和63年6月17日付で、(イ)本願発明は、引用例1、引用例2に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明することができたものと認められるから、特許法29条2項の規定により特許を受けることができない、(ロ)本願発明は、実施例の記載だけでは特許請求の範囲に記載された刊行物の組合せのすべてにおいて発明の目的が達成されると認められず、また、あいまいな表現が発明の構成を不明確にする点で、明細書及び図面の記載が不備と認められるから、特許法36条3項、4項の規定する要件を満たしていない、との二つの理由を記載した拒絶理由通知書を作成して、同年7月19日同通知書を原告に発送した(この事実は当事者間に争いがない。)。

〈2〉  原告は、これに対し、同年9月16日、明細書の記載を補正する手続補正書を提出するとともに、意見書を提出して、本願発明が特許法29条2項によっても、同法36条3、4項によっても拒絶されるべきでないとの意見を述べた。

〈3〉  特許庁審査官は、昭和63年11月7日、本願は前記〈1〉の(ロ)の理由により拒絶すべきものと認めるとして、拒絶査定した。

〈4〉  そこで、原告は、昭和64年1月5日査定不服の審判を請求し、同年(平成元年)2月3日、手続補正書を提出して明細書の記載を再度補正した。

〈5〉  特許庁審判官は、平成3年5月30日、改めて拒絶理由を通知しないまま、本願発明は前記〈1〉の(イ)の理由により特許を受けることができないことを理由に、本件審判請求は成り立たない、との審決をした。

(3)  特許法50条は、審査官が特許出願に対し拒絶査定をしようとするときは、特許出願人に対し拒絶理由を通知し、意見陳述の機会を与えるべきことを定めている。その趣旨は、審査官が拒絶理由があるとの心証を得た場合においても、なんらの弁明の機会を与えずに直ちに拒絶査定をすることは特許出願人に酷であり、また審査官も過誤を犯すおそれがないわけでもないから、このようなときにはまず特許出願人に意見書を提出して意見を述べる機会を与える一方で、願書に添付した明細書又は図面を補正して拒絶理由を解消する機会を与え、また同時に特許出願人から提出された意見書を資料として審査官に再度の考案をするきっかけを与えて審査の公正を担保しようとすることにある、と判断される。同法159条2項は、拒絶査定不服の審判に同法50条の規定を準用する旨を定めているが、その趣旨は上述したところと全く同様であると解される。そして、同法158条は、審査においてした手続は審判手続においても効力を有することを定めており、審査官がした拒絶理由通知は審判手続においても効力がある。

そうすると、本件のように、審査官による拒絶査定の理由とその結果を維持した審決の理由とが異なっている場合において審判手続であらためて拒絶理由が通知されていないときであっても、審査手続において審決が採用した拒絶理由が通知されていれば、審判手続に違法はないといわなければならない。なぜならば、上記の同法158条により、査定不服の審判手続において、審査官がした拒絶理由通知並びに出願人が提出した意見書及び補正書も効力を生じるから、既に出願人の意見陳述と拒絶理由解消の機会は与えられ、審判の公正も担保されているというべきであるからである。そして、この理は、拒絶理由通知後に補正がされたか否かで全く影響を受けないといわなければならない。

前記(2)における認定事実によれば、本件においては、審査官は拒絶査定をした際に理由とした前記(2)〈1〉の(ロ)の理由のほかに審決が拒絶理由とした同(イ)の理由をも通知しており、現に原告は同(ロ)の理由と同(イ)の理由の双方に対し意見書を提出するとともに補正書を提出していると認めることができるのであるから、審判手続に違法があるとの謂れは全くないというべきである。

(4)  原告は、本件では、審査官が拒絶理由通知書に記載した理由のうち特許法29条2項に基づく理由は撤回されているから、本件審判手続は違法であると主張する。

しかし、審査官が拒絶理由通知書に記載した理由のうち拒絶査定の際に記載しなかったものがあったとしても、当然にそれが撤回されたものと解すべき法律上の根拠はなく、また、本件全証拠によっても、本件において審査官が黙示的にもせよ同法29条2項に基づく理由を撤回したと認めるには足りず、この原告の主張も理由がないといわなければならない。

5  取消事由(2)について

(1)  相違点看過の主張(取消事由(2)〈1〉の主張)について

原告は、本願発明では、ビヒクル中に包含させた一方の無色発色剤を他方の無色発色剤と接触反応させて有色化合物をビヒクル相中に生成させており、有色化合物はビヒクル相という特異な場で生成するのに対し、従来の染料では、既に発色しており、引用例1及び引用例2記載の方法もその例外でなく、両反応化合物は溶媒に溶かされその溶液中で反応させて有色化合物を生成させており、相違点があるのに、審決は、この相違点を看過している、と主張する。

しかしながら、審決は、「本願発明では、一般式(Ⅰ)、(Ⅱ)のいずれか一方の化合物をビヒクル中に包含させ、この化合物と残りの他方の化合物(Ⅰ)又は(Ⅱ)とを接触反応せしめて、有色化合物をビヒクル中に生成せしめるのに対し、引用例1又は引用例2には、有色化合物は溶媒中で生成されることは記載されているが、上記の点については明記されていない点で相違している。」と認定しており、審決は原告主張の点をも含みうる形で相違点を認定していることは明らかであり、審決に相違点の看過があるという余地はなく、それ以上検討するまでもなく、原告の主張は失当というほかはない。

(2)  相違点判断の誤りの主張(取消事由(2)〈2〉の主張)について

〈1〉  原告は、引用例1及び引用例2記載の発明は本願発明と技術的思想が異なり、また、周知手段は、本願発明と技術的思想が異なり、さらに引用例1及び引用例2の方法は周知手段とは技術的思想が異なるので、周知手段と引用例1又は引用例2記載の方法とを組み合わせて本願発明に至ることは容易でない、と主張するので、この主張について詳細に検討をすることとする。

〈2〉  本願発明と引用例1及び引用例2記載の発明とが、一般式(Ⅰ)の化合物と一般式(Ⅱ)の化合物とを反応せしめて有色化合物を生成する点で一致していることは、当事者間に争いがない。また、周知手段が繊維などの着色において周知の手段であることも、当事者間に争いがない。

〈3〉  原告は、まず、本願発明のビヒクルと引用例1及び引用例2記載の溶剤とは別のものであることを前提に、各引用例記載の方法では両反応化合物を溶液中で反応させて有色化合物を生成させることを示すにすぎないのに対し、本願発明ではビヒクル中で有色化合物を生成させるのであるから、この点で技術的思想が異なる、と主張する。

確かに、甲第2号証によれば、本願明細書には、「本発明でいうビヒクルとは発色剤A又はBを分散、保持し、また発色処理後は有色物質を分散保持することにより、それ自身が着色されるもののことを云い、着色後はフィルム、シート、フォーム、パイプ等のプラスチック成形品、チップ、ペレット等の成形原料、塗料、捺染色糊等の製膜材料の如く液状、粉末状のものも包含される。」(本願公報2頁左下欄13行ないし20行)との記載があることが認められ、本願発明にいうビヒクルは、それ自身が着色されるもの、すなわち被着色物であると認定することができる。これに対して、甲第9、第10号証の記載事項を技術常識に照らして当業者が理解するならば、引用例1及び引用例2において使用されている溶剤は、反応をスムーズに行うために使用されているもので、いわゆる反応溶剤であることが明らかである。したがって、本願発明にいわゆるビヒクルと引用例1及び引用例2で使用されている溶剤との間には、一応の違いがあるということができる。

しかしながら、本願発明と引用例1又は引用例2記載の発明との技術的思想を対比検討するに当たっては、単に上記ビヒクルと溶剤との異同のみで判断することができないことは当然であって、両者の技術の持つ意味、技術が示唆するもの等技術的思想の全体を総合して判断すべきである。

この観点に立って、両者を対比するため、まず引用例1及び引用例2についてみると、甲第9、第10号証と前記当事者間に争いがない事実によれば、引用例1及び引用例2はいずれも特許出願公開公報であること、引用例1には、二種類の原料化合物(発色剤A、B)から製造された着色化合物(一般式(Ⅰ)の化合物)は、「耐候性、耐熱性、耐マイグレーション性が優れた極めて鮮明度の高い顔料であり、塗料、ラッカー印刷インキ等の着色に、また、ポリエステル類、ポリアミド類、ポリオレフィン類等の合成樹脂の着色剤として好ましく使用することができる」(4頁左下欄6行ないし11行)ことが記載されていること、引用例2には、二種類の原料化合物(発色剤A、B)から製造された着色化合物(一般式(Ⅰ)の化合物)は、「天然又は合成ビヒクルと混練し、要すれば顔料助剤を添加することによって印刷インキ、塗料等を製造することができる。又、ゴム、合成樹脂等中に分散させることによって、これら基材を着色することも可能である」(3頁左下欄14行ないし19行)ことが記載されていることが認められ、引用例1及び引用例2には、二種類の原料化合物から製造された着色化合物により種々の物を着色する技術が開示されていることが、明らかにされている。

そして、これら各引用例に記載された技術をその利用面(着色方法)から検討してみると、引用例1及び引用例2記載の技術それ自体においては、二種類の化合物(発色剤A、B)の反応により得られた着色化合物をそのまま利用するもので、原料化合物である発色剤A、Bは無色であり、この二種類の原料化合物が反応して初めて着色物が得られるのであるが、周知手段、すなわち、「二種の化合物を反応させて被処理物を着色するに際し、一方の化合物を被処理物に包含させ、他方と反応させること」が繊維などの着色において周知なのであるから、引用例1及び引用例2記載の着色化合物をそのまま利用する方法に代えて、周知手段のような着色方法を採用して着色化合物を利用することは、当業者が普通に採用する程度のことであると認められ、慣用技術の転換の範囲内のことというべきである。

そうすると、本願発明のビヒクルと引用例1及び引用例2記載の発明における溶剤との間に一応の違いがあるからといって、周知手段の存在を無視して、両者が技術的思想において異なるということはできないことが明らかであり、この点に関する原告の主張は失当である。

〈4〉  原告は、次いで、ナフトール染料による染色を例に挙げて従来の染色用の染料では、有色化合物がビヒクル相中に生成するものではなく、既に発色しているということができ、引用例1及び引用例2記載の方法もその例外でなく、その点からも、引用例1及び引用例2記載の発明は本願発明とは技術的思想を異にする、と主張し、その主張を立証するために甲第12号証を提出している。

そこで、甲第12号証を検討してみると、同証によれば、トーマス・ビッカースタッフ著「染色の物理化学」(髙島直一外共訳、丸善株式会社昭和32年8月20日発行)には、「繊維素に利用されるもう一つの種類はナフトール染料である。この場合、繊維をまずナフトールあるいはブレントールとして知られているフェノール類の冷苛性ソーダ水溶液につける。(中略)この化合物が繊維にとられる仕方は多分に吸い込みといえるものであるが、いくらかは繊維とBlentholとの間の固有な引力も存在する。この場合も(中略)電解質が加わると吸着が増す。絞って乾かした後4-chloro-o-toluidineのジアゾ化合物のようなアミンのジアゾ化合物の溶液につけると、繊維内でカップリングが起って不溶性の赤色アゾ染料ができる:(中略)やはり染料は機械的に保持される。洗濯して染料の聚合を起させ、同時にゆるく表面に付いている色素を取去れば、染色工程が完成する。」(12頁5行ないし下から9行)との記載があることが認められる。しかし、この記載には具体的にアゾ染料が繊維の網状構造内に生成するとの開示があるとはとうてい言い難いので、ナフトール染料による繊維の染色機構について不溶性染料が繊維を構成する高分子化合物の相中ではなく、繊維の網状構造内に固定されるのか否かについて更に審究を要する。

甲第12号証の上記記載と乙第2号証によれば、ナフトール染料による繊維の染色は、ナフトール類を繊維の内部に浸透、拡散させこれを絞って乾かした後、この繊維をジアゾ化合物の溶液に漬けて発色させ、最後に洗濯してソーピングにより未反応物を除去する工程からなっていることが認められる。そして、乙第3、第4号証によれば、黒木宣彦著「解説染色の化学」(槇書店昭和35年3月31日発行)には「すべての繊維は比較的規則正しく分子が配列した結晶領域あるいはミセルとよばれる部分と比較的配列の乱れた非結晶領域と呼ばれる部分からなっている。(中略)染料が関与するのは主として非結晶領域であることがわかる。」(24頁7行ないし23行)との記載及びナフトール類についても同様であり、ナフトールAS類中の基がセルロース基中のOH基との間に水素結合を形成し、水素結合以外の力にはセルロースと密に接触しているベンゼン、ナフタリン核のπ―電子系もあずかっているとの記載(83頁8行ないし92頁7行)があり、日本化学会編「染料と繊維」(大日本図書株式会社昭和32年5月25日発行)には「もめんを染浴中で熱すると(中略)セルロース分子と染料分子とが接近する。セルロース分子はヒドロキシル基―OHを多くもっているから水と親しみやすいが、中性であって、染料の分子やイオンと強く結合する力はない。おそらく幾つかの水素結合で結びつくのであろう。(中略)しかし、染料分子が幾つか集まって大きい集団となると、全体ではかなりの力になる。」(49頁下から3行ないし5頁6行)との記載があることが認められ、前記の甲第12号証によって認定した事実ともあわせれば、ナフトール類の繊維内部への浸透拡散は、繊維中の主として非結晶領域でされ、そのときナフトール類とセルロース分子とは分子間の水素結合や分子間力により結合されており、そのような状態にあるナフトール類がジアゾ化合物とカップリングし発色することを認めることができる。

したがって、初めに浸透させるナフトール類は繊維中の非結晶領域に入り込んでセルロース分子と分子間の次元で結合しその状態でジアゾ化合物とカップリングを起こすと認定することができるから、そのカップリングにより生成する有色化合物はまさしく繊維相中で生成されるということができ、典型的な従来染料であるナフトール染料による染色においても、有色化合物を繊維相中で生成していることが明らかにされている。

ところで、本願発明が一般式(Ⅰ)の化合物又は一般式(Ⅱ)の化合物のいずれか一方の化合物をビヒクル中に包含させ、この化合物と残りの他方の化合物とを接触反応せしめて有色化合物をビヒクル相中に生成せしめることを特徴とする着色方法であり、本願発明のビヒクルに繊維の如きものが含まれることは、前記1及び2における検討の結果並びに前記〈3〉において認定した本願明細書中のビヒクルの定義により明らかである。

そうすると、上記のナフトール染料による染色技術は、有色化合物をビヒクル相中に生成させる本願発明と技術的思想において共通しているといわなければならない。

以上のとおりであるから、本願発明と引用例1又は引用例2記載の発明とが上記の点から技術的思想が異なるとの原告の主張も、前提を欠き、失当というほかはない。

〈5〉  原告は、さらに、周知手段は、いずれか一方の発色剤をビヒクル中に分散保持させたり、他方の発色剤と反応させて有色化合物をビヒクル中に生成したりするものではなく本願発明と技術的思想が異なり、また引用例1及び引用例2の方法は周知手段で使用される染料とは全く別種の顔料を使い、それとは技術的思想が異なるので、周知手段と引用例1又は引用例2記載の方法とを組み合わせて本願発明に至ることは考えられない、と主張する。

しかしながら、まず、周知手段の内容は、前記のとおり二種類の化合物を反応させて被処理物を着色するに際し、一方の化合物を被処理物に包含させ、他方と反応させるものであって、本願発明の方法そのものでないことはもちろんであるが、一方の化合物をビヒクル中に包含させ、この化合物と他方の化合物とを接触反応せしめて有色化合物をビヒクル相中に生成せしめるという本願発明の技術的思想と共通することは一見して明白である。

そして、甲第9号証及び第10号証と甲第12号証及び乙第2号証とを対比すると、引用例1又は引用例2に記載された着色化合物と周知手段で掲げられたナフトール染料とが別種のものであることは明らかであり、両者で着色化合物が異なること自体は、原告が主張するとおりである。

けれども、前記認定のとおり、各引用例記載の着色方法は、二種の原料化合物(発色剤A、B)の反応により得られた着色化合物を利用するが、原料化合物の二種の化合物は無色で、これらの化合物が反応して初めて、着色の利用を可能とする有色物を生成するものである。他方、本件全証拠によっても、周知手段が、例示されたナフトール染料のみに適用可能であると判断すべき事由を見出すことはできないから、周知手段は、特定の着色化合物に限定して適用されるべきであるということはできない。また、このような周知手段が特に特定の被着色物にしか適用できないという技術でもないことは技術上明白である。したがって、各引用例記載の技術を、着色化合物をそのまま利用する場合だけではなく、周知手段と同様に、一方の発色剤(A)を、前記のとおり周知の手段であるナフトール染料におけるカップリング成分のように、被着色物中に含有させ、他方の発色剤(B)をそのジアゾ成分のように、それぞれ使用し、両成分を被着色物中で反応させて、被着色物中に着色化合物を生成させることにより、被着色物の着色を行うことに適用しても特に不合理な点はないというべきであり、この適用を不可能とする理由を見出すことはできない。

そうすると、各引用例の技術と周知手段とは、着色方法としてみた場合、技術的に転用可能な関係にあるということができ、両者の技術的思想が両者を組み合わせることが不可能であるとするほど異なっていると判断することはできず、周知手段を引用例1及び引用例2記載の発明に組み合わせて本願発明に至るのに特段の妨げはないというべきであり、上記の原告の主張は理由がないといわなければならない。

〈6〉  したがって、前記〈1〉記載の原告の主張は失当というべきであり、この点に関する審決の判断は正当といわざるをえない。

(3)  作用効果の顕著性に関する認定判断の誤りの主張(取消事由(2)の〈3〉)について

〈1〉  原告は、本願発明の奏する作用効果に関する審決の認定、判断について、本願発明でいうビヒクルは明確に特定されているから、これを広汎なものを意味するとした認定は誤りであり、本願発明には顕著な作用効果があるのに、それらの効果を看過した判断は誤っている、と主張しているので、この主張について判断する。

〈2〉  前記認定のとおり、本願公報には、「本発明でいうビヒクルとは発色剤A又はBを分散、保持し、また発色処理後は有色物質を分散保持することにより、それ自身が着色されるもののことを云い、着色後はフィルム、シート、フォーム、パイプ等のプラスチックス成形品や合成繊維、合成皮革などの成形品、チップ、ペレット等の成形原料、塗料、捺染色糊等の製膜材料の如く液状、粉末状のものも包含される。」(2頁左下欄13行ないし20行)との記載があるが、この記載のうち「着色後は」以下の部分は、ビヒクルにどのようなものが含まれるかをビヒクルの形態の観点から明確化したものと解するのが自然であるということができる。

もっとも、原告は、着色後の種々の製品ないしは材料が着色後にとりうる形態を例示したものにすぎない理由として、明細書記載の具体例及び実施例の記載を挙げ、また明細書に本願発明の着色方法で使用されるビヒクルが形態として液状を取りうることを示す記載はないことをも根拠として指摘する。

しかしながら、甲第2号証によれば、本願明細書に記載された具体例は例示であることが明示され(本願公報3頁右上欄20行ないし左下欄1行)、実施例を掲げて説明を加えるものの本願発明の特許請求の範囲をそれらの例に限定するものでないことも明記されている(同4頁左下欄1行ないし3行)。そして、上記認定の本願明細書におけるビヒクルの定義の記載には明らかに液状のものが含まれているというべきであるし、乙第1号証によれば、化学大辞典編集委員会編・化学大辞典(共立出版株式会社平成元年8月15日発行)には、「展色剤、ビヒクル」の項に、「顔料を含む塗料において顔料以外の液状の成分をいう。(中略)印刷インキの顔料以外の成分も展色剤という。」との記載があることが認められ、この技術常識(乙第1号証の初版は昭和38年12月15日に発行されたものであって、上記記載事項は本件出願当時の技術常識であったと認められる。)とも対比すると、本願発明におけるビヒクルから特に液状のものを除外すべき理由は見当たらない。したがって、原告の指摘は当を得ないというほかはない。

そうすると、本願発明におけるビヒクルが着色後はフィルム、シート、フォーム、パイプ等のプラスチック成形品や合成繊維、合成皮革などの成形品、チップ、ペレット等の成形原料、塗料、捺染色糊等の製膜材料の如く液状、粉末状のものなど広汎なものを意味するとした審決の判断は、正当というべきで、原告の主張は失当といわなければならない。

〈3〉  原告は、審決が看過した本願発明の奏する顕著な作用効果として、第一に実施例のように着色が短時間で行われること、第二に部分着色が容易に可能であること、第三に着色が堅牢であること、第四に有色廃棄物を外部に排出しないことを主張する。

しかしながら、前記〈2〉の検討の結果によれば、本願発明におけるビヒクルは広汎なものを意味しているのに対し、本願明細書記載の実施例は本願発明を実施した一部の例でしかなく、本願発明はこのような実施例の場合のみに限定されるわけではないことが明らかであり、ビヒクルの種類及びビヒクルへの一方の化合物の包含の仕方によって発色までの時間が大幅に異なるであろうことは容易に推認しうることであるから、本願明細書中の実施例の記載を取り上げて本願発明による着色が短時間であると認めるには足りず、本願発明による格別の作用効果として上記第一の点を認定することはできないというべきである。

また、本願発明のビヒクルに液状のものが含まれることは前記〈2〉において判断したとおりであり、ビヒクルが液状のものにあっては、部分着色が容易であるとか、着色が堅牢であるとか、外部に排出する有色廃棄物が少ないとかいうことができないことは、技術上自明であるから、本願発明により特に上記第二ないし第四の作用効果が得られると認めることもできない。

〈4〉  そうすると、〈1〉記載の原告の主張は理由がなく、この点に関する審決の認定、判断は正当というべきである。

6  よって、審決の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求は失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竹田稔 裁判官 成田喜達 裁判官 佐藤修市)

別紙第一

〈省略〉

別紙第二

〈省略〉

別紙第三

〈省略〉

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